=1955年、こうして土地を奪われた=

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 午前3時頃、水田地帯の一角から重車両の動く音が聞こえてきた。しかし、真っ暗闇で、その姿は見えない。水田地帯のすぐ側を通っている軍用道路の彼方からも轟々という不気味な音が聞こえてくる。音がだんだん近づいてきた所をよく見ると、武装兵を満載したトラックと、これまた武装兵を両脇に乗せたブルトーザーが、ライトを点けずに、何台も何台も徐行して来るではないか。そして、空がうっすらと白みかける頃には、13万坪の水田地帯はすっかり武装兵に包囲され、ブルトーザーが32戸の住居がある部落に突入していた。海の方ではドレッジャー(浚渫船)が汽笛を鳴らしながら伊佐浜の海岸に近づいて、海水と一緒に砂を流し込むパイプを水田地帯に向けて繋いでいく。それは戦争さながらの海陸両面作戦で、琉球軍副司令官ジョンソン准将が陣頭に立って指揮をとっていた。

 夜が明けた時には、水田地帯の周りに有刺鉄線が張り巡らされ、大勢の作業員が水田の畦を次々と切り崩していた。支援に駆けつけた人たちは武装兵に阻まれて近づくことが出来ず、怒りに震えながらアメリカ軍の仕打ちを見守っているばかりであった。

 伊佐浜の区民もこうなっては手の施し用が無く、金網の中に入った32戸の家屋に座り込み、最後の抵抗を示した。それをアメリカ兵たちは銃剣やピストルを突きつけて追い出した後、家屋の取り壊しにかかった。

 先ず部落の入り口にある店の屋根に鶴嘴が打ち込まれた。剥き出しになった梁にロープがかけられ、それをブルトーザーが引っ張って、家は引き倒された。倒れた家の木材等は家財道具もろともブルトーザーで寄せ集め、ダンプカーに積んで、海岸に捨てに行く。このようにして32戸の家屋が次々と取り壊された。水田にはドレッジャーが海底から吸い上げた砂を海水と一緒に流し込み、水田は見る見るうちに砂で埋められていった。

 家を取り壊され、強制立ち退きさせられた32世帯の人々は、暫く近くの小学校に収用された後、10数キロ離れた高台に移された。しかし、そこは農業が出来ない不毛の地だった。それで結局2年後には、大部分の人々が生計を立てる道を失い、南米へ移民として移住した。

 

伊江島では、戦時の上陸作戦さながらに、約300人の米軍完全武装部隊が上陸し、ブルトーザーやダンプカーを次々と陸揚げした。そして、翌日から3日間をかけて、爆撃演習用地として百万坪の農地に有刺鉄線を張り巡らし、その中にある13戸の農家を家財道具もろともブルトーザーで次々とひき潰していった。火を放って燃やした家もある。作業はすべて銃剣をかざした武装兵が取り囲む中で行い、農民が作業現場に近づくと、殴り倒したりした上に、捕えて有刺鉄線を円筒形に積み上げて作った檻に監禁した。アメリカ軍の強制接収は3月14日に完了した。

 その後、真謝区の農民は、有刺鉄線をくぐって爆撃演習場の中に入り、「ここは私たちの土地であります。私たちは生きるために働きます。」と和英両文で書いた白旗を掲げて畠を耕作した。すると、武装したアメリカ兵が、軍用犬を使って襲いかかり、あるときは32人、あるときは5人と、農民を捕えて軍事裁判に送り、軍事基地に入ったという廉で、数ヶ月の懲役に処した。こうして投獄された農民は通算百数十人に上る。また、農民の中には、アメリカ軍の飛行機から投下される演習弾で爆死した者が二人、射殺された者が一人、重軽傷を負った者が38人もいる。

 このように大きな犠牲を払いながら、農民達は爆撃演習場内での農耕を続ける一方、他方では男も女も、老人も子供も、皆で沖縄本島に渡り、時には琉球政府前で抗議の座り込みをし、時には伊江島の実情を沖縄中に訴えて歩く「乞食行進」をして、不屈の闘いを繰り広げていった。

=故・国場幸太郎の証言文=

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彫刻家 金城実の作品